雑記

とりあえず色々書いていこうと思います

ブログ読まれるのってどうして恥ずかしいの?

お久しぶりです。忙しいわけではなかったんだけどめちゃくちゃサボってました。一回書かない日々が続くと書いてた時より書くエネルギーが必要になりますよね。

 

書くネタがありそうで無いというか、書こうとしてみるんだけど、簡潔にまとめられないなとかで少し逃げてしまいました。人に読まれるから心のどこかでいい文章を書こうとしてしまうのはしょうがないけど、しょぼい文章でも書こうと思って始めたのだからよくないね。

 

 

 

あんまり人に言わずにブログ書き始めて、twitterのbioにリンクを載せていただけだからほとんどみんな読んでないっしょって思ってたら今日部活の後輩に読まれていることが発覚しました。隠してるわけではなかったし、誰に読まれてもいいように書いてるはずだから、嫌ではないしむしろありがたいけど僕が知らない間に読んでたと思うと少し恥ずかしいですね。

 

どうして恥ずかしいのか、ある本をもとに考えてみようと思います。考えるというよりその本の内容そのものかもしれませんが。

 

 

 

平野啓一郎さんが書いた『私とは何か「個人」から「分人」へ』という本があります。この本は学科の先生がある機会に紹介していて興味深くて買った本です。

人は個人、英語ではindvidualというそれぞれが不可分な存在として認識されることが多いですが、それぞれの人は不可分な存在ではなく複数の自分が存在しているという考え方をする「分人」という新たな概念が出てきます。

家族といる自分、友達といる自分、恋人といる自分はキャラを作ってる意識はなくてもそれぞれ異なる自分でいるのではないか。これはどういうことだろうか、というようなことが書かれていて、どれが本当の自分かということではなく、全て本当の自分であり、それぞれは自分の「分人」であるという考えをする本です。

 

説明がめちゃくちゃ下手ですが、興味を持った人はぜひ読んでみてください。

 

 

 

人と喋るのは大好きだし、自分のことを話すことにも抵抗がありません。ではなんでそんな僕が恥ずかしいと思ったのかというと、おそらくブログを書いている「分人」が後輩と接しているときの「分人」と違うからだと思います。

 

今のところ、ブログの分人は僕が想像するブログを読んでいるだろうなという人への「分人」で、普段後輩と接している「分人」とは異なるものです。これは下ネタを話すような仲の人との会話を親に聞かれている状況に似たものがあると思います。

 

みんながtwitterのアカウントを高校用と大学用と分けたりするのも、もちろん関係ないことを他の人のタイムラインに流さないという配慮もあるかもしれませんが、高校の時の自分しか知らない人たちに何かが違う大学の自分を見られる恥ずかしさのようなものがあるからなんじゃないかなと思います。

 

分人は更新されうるものであると本にも書いてあって、このブログを書く僕の分人も更新されていくと思います。その変化も楽しんでいけたらなと思います。

 

 

 

やっぱり文章書くの苦手でシンプルに下手な文章を書いているという恥ずかしくて、切ないです。いつか上手く文章書けるようになったり、喋れるようになりたいものです。

 

あと、ブログ読んだ方はこそこそ読まずに教えてくれると僕が喜びます。